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2018年12月 7日 (金)

欧米メディアの薄っぺらい信教自由

焦点:ミャンマーの堕ちた偶像、スー・チー氏に若者世代が反旗
https://jp.reuters.com/article/myanmar-activists-idJPKBN1O40S3

 ロイターが自ら掲載した写真の通り、デモ行進と言っても数十人。 ほとんどのミャンマー人がロヒンギャに否定的なのに、若い世代が反旗を翻したなどと報じるのは現地人にとって捏造以外の何物でもないだろう。 この記事を読んだ欧米人や日本人の人権意識を喚起させるための嘘に過ぎない。
 結論有りきで宗教カオスを生もうとする欧米メディアは、自国においては古臭い伝統極右やら国粋主義という亡霊を呼び覚ましてしまう不本意な結果を引き起こしている。 信仰の自由はあくまで普遍的な社会契約を満たす範囲内で認められるべきだ。 末端信仰者によって原理主義に陥ったり勝手解釈されやすいイスラム教に厳しい目が注がれるのは必死というもの。 しかしそれにもかかわらず、均衡を取るのが正義だとやみくもに信じて疑わないジャーナリストによって歪められがち。 ロヒンギャが自ら代表者を持ち交渉にあたっていたならば、ここまでひどい仕打ちはなかったと思う。 だが現実には、彼らは自らの統率と他者との融合和解への努力を怠ってきており、命までは取られないとしても報いを受ける立場にある。
 本来的に宗教は命の救済のためにあるもので、布教のために命を奪うのは自己矛盾・本末転倒である。 逆に命を救えない仏力・法力・神力無き宗教はその存在価値を疑われ、居場所を追われ、淘汰の対象とされるのは必然。 もし狭小に自力・科学力だけを頼みとするならば、それはそれで共産主義・独善主義に陥る。 メディアが取るべき真のバランスは、基本的人権を超えた過剰な保護を正義とすることではない。 滅びゆく存在の中にも秩序が必要な場合があり、報道にはその手助けをするに留める役割もあると知るべきだ。

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